潔さとぐうたらの間


「潔いね」と言われました。
文字面だけ見たら褒められたように見えるんだけど、そうではなくて、もっと、「ヘンなやつだなぁ」ていう文脈で。

これを聞いてはっと気づいたのが、
決して私は潔くはないんだけれど、
潔い人は好きで、言い訳とか下手に取り繕うのが大嫌いで、できたらそうありたいな、て思っているし、そう振舞うようになってる、てこと。
私は潔い人が好きなんだ。言葉にしてなかったからあまり意識してなかったけれど、そうだな、としっくりきてものすごく嬉しかった。

けれどひとついかんと思うのは、潔さを踏み外してぐうたらの線路を走ってしまうことって、往々にしてあるんじゃないか、ってこと。もちろん私含めて。いや、ぐうたらを責めている、て話ではなく、潔さと思い込んでいるぐうたら、てのが一番マズイんじゃないか、ということ。自分の都合のいいように「潔さ」を振りかざしている、ってことになると思うから。
だからさ、みんな、潔くぐうたらしようよ。かっこわるくてもいいから。

昨日電車で1人乗っている、ぷくぷくの少年を見かけました。どこか心細そうな、大きめのリュックを背負ったその姿になぜかジンときて、こんな子の未来を私は守りたい、と思ったのでした。

わかってはいたはずなんだけど

3日間の東京遠征を終え、帰阪。

今回の遠征、心の中で決めていたこと、
「ありのままの私で、まっすぐ思いを伝えること」
私というひとを、正直に、丁寧に、伝える。伝わらなかったらそれでいい。

人事の方は私の話を丁寧に、穏やかに聞いてくださって、思っていた以上に緊張することなく、思いを伝えられたかな、と。

いや、違う。そんなことを書きたいんじゃない。
どうしてこんなに疲れてるんだ。

言いたいことは伝えた。けれども何かおかしい。何かできことを列挙して、「この経験をしたからこう思うようになりました。だからこの仕事に興味を持つようになりました。」うんうん。ひとつひとつは嘘は言ってないしむしろ言葉を選びながら、つっかえながらも、ひとつひとつ、私の中での大切なできごと、こと、ひと、の話をした。
でも、本当にこれだけか?
何か、具体的な「できごと」「経験」、そんな特別なことだけで、今の私の頭の中に至っているの?そうじゃない。むしろ、言語化するのが難しい、日々の小さな思いの変化とか、ちっさなことに傷ついたとか、感動したとか、怒ったとか、そういう自分の心の中での瞬間瞬間が積み重なって、今も答えは出ていないけど、今ここにいます。
こうなんじゃない?そんな単純じゃないよね?
もちろんそんなことも分かっているし、その部分を伝えたいから、触れるようにはする。けれどもそういう曖昧な名付けることのできない機微って、わかりやすく伝えるには無意識に端折ってしまう。そこだ。私はそこに傷ついているんだ。
面接って時間も限られてるし、そういうこといちいち言ってたら進まないしわかってはいるんだけど。
でも、大切なことはそこにあるよね。
今一度、心に留めておきたいと思ったので、ここに書いておく。
 
21歳の誕生日に私は
「素直であり続ける勇気をもっていけますように」
という目標を立てていました。




無理しない勇気


先日、ピースの又吉さんの「火花」を読みました。最近本から遠ざかっていた(遠ざけていた?)ので、久しぶりの真面目に読書。というのも、ちょくちょく読んでいる「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井さんと又吉さんの対談を見て、なんだか久しぶりに本を読みたくなったからで。その対談の中で又吉さん、「無理しないようにやってます。」。
それは何も、「楽をすること」とイコールで結ばれていないと感じました。そうすることによって、「心に負担がない、気が楽になる」ってのはあるかもしれない。けれどもそれはそうすることによってもたらされる一つに過ぎなくて、必要十分条件にはなりえない。
又吉さんの大切にしてきたことを、大きくも見せず、小さくも見せず、飾り立てもせず、素直なままでありたい、っていう、「勇気」を感じました。大きく見せようとしたり飾ってみたりすることは否定せずに、自分はこうある方がいいんだ、っていう、役割を自覚したような清々しさがまたかっこいい。

水曜どうでしょうのディレクターの方のお話を聞いたときにも似たような気持ちになったのを思い出しました。

そろそろまたランはじめようかな。あたたかくなってきたし。


 

新聞読むのって、おもしろい。


なんとか4日間続いています。
毎日更新が夜の頭がぼーっとしてるときなので、昨日何を書いたっけ?って、うろ覚えな感じで今日も綴ってます。内容重複してたらすみませぬ、ってこと。

実家に帰ってきて、朝ごはんを食べて、昼寝して、起きて、昼寝して昼ごはん食べ損ね、昼寝して…っていう一日。まずいぞ。

最近たのしいのが、タイトルにも書いた通り、新聞を読むこと、なんです。普通に1紙、多いときで2紙とかを、じ〜〜っくり、時間をかけて、読み込む。これだけなんだけど、これっておもろい。一つの新聞のなかに、海の向こうの国のことから国のトップがどうした、とか今の流行りの製品はこれや、とか街にこんなおっちゃんがおるで、とか、色とりどりの具が詰まってる。贅沢。
社会の流れをやんわり掴めるから、テレビのニュースも格段に面白くなる。なんやら難しいと敬遠し続けてきたのを、ここにきて惜しいことをしてたなあ、と。
 
ニュースインエデュケーション、とか最近言われてきてるみたいやけど、いい取り組みやと思う。選挙権の年齢引き下げもあるし、もっと子どもたちが、世の中の動きに興味を持てるような働きかけ、新聞はできる力を持っていると思う。

友だちに宛てたメールの返信、下書きフォルダに溜まるばかり。

つめつめで目が回る充実感のウソ


最近ポーッと頭に浮かんでるテーマがある。
「地域」と「教育」。
具体的にどうだとか、仕事にするしないうんぬん、とかじゃなく(意識はしてるけど)、私の身体の中から引っ張り出してきた、テーマ。今はこれ。
この2つになにかしら関わる、クロスする、生き方がしたいなぁ、って、今は思ってる。もちろん、毎日過ごす中でぽこぽこ、脳みその中から小テーマ、生まれてくるわけで、変わることもあるかも知れないけれど、5月2日のわたしはこうです。

で、気になるなぁ、って思うことひとつ。
「教育」って、なんで「教」「育」、なんだ?
「教育する」は「教えて育てる」って意味だよね。なんかここに、違和感がふつふつ。
本当にそうだろうか?
もっと、「フレー!フレー!」っていうもので、「わくわく」するもので、「ほんなもん知っとるん?あちゃあ、ありがとう」ってものやないんかな。
「先生」っていう高位にいる者から、「生徒」に与え授けたまふもの、みたいな響きに、ぞぞっとする。
…って言いつつ、他に代わりになる言葉はなくて、使い続けるんだけども。
こういう言葉ひとつにひっかかって、ついついアンチな気持ちになってしまうのって、その「きょういく」の行為そのものに、ザワザワした気持ちがあるからなんだろうなぁ。もちろん、生徒と必死に向き合って、がんばる先生たちはいらっしゃる。

どこかの本で読んだ。
「この人が先生、って思ったら、その人はあなたの先生なんだ」


それって、だれが嬉しくなるの?


今日は会社説明会参加のため、日帰りで地元に帰省。ぷはー、つかりた。
けれどもやっぱり直接足を運んで、話を聞いて、見て、感じる、それに限る、と思う。だって、どんなに名前の知れた会社でも、どんな人が働いていて、その人はどんなときに笑って、どんなときに真面目な表情をして、どんな声を出すのか、分からないと、自分がどう思うか、判断できない、と思うから。
というか、よくわからんのに、「働きたい!」も「げ、合わんなぁ」も、決められんよね。

にしても(話かわります)納得いってないことがあるんだよね。そのぼやきがタイトル。これについてはまた時期が来たら。

スーツをかっこよく着こなすキャリアウーマンな体型に近づきたい。