人を想う。

今日のこの気持ちを残しておくべきだと思った。

人が人を傷つけたり、傷つけられたり、
それによって誰かの大切な人の心がもうかえってこなくなってしまうような
それが「戦争」であれば私はいやだ。

「国民を守るため」という大義を掲げて、
誰がその戦地へ向かうのだろう。
戦地へ向かう人のことを大切に思う人たちは、どんな気持ちで送り出せばいいのだろう。
戦地で苦しむ人たちが犠牲になってもよいのだろうか。自分の国とは「密接な関係」でない、遠い国の人たちだからといって。
誰かに悲しみをもたらして、それを踏み台にして得られるものは「平和」なのだろうか。

多くの途上国で人道支援に取り組まれている方、特派員として戦闘地域での取材をされてきたジャーナリストの方が口を揃えておっしゃっていること。
「日本は武力をもたずして戦争から復興を果たした平和な国家。それをみんな知っているから、だからどこへ行っても温かく迎え入れられる」
これが武力をもったらどうなってしまうんだろう。自分たちがもしかしたら「敵」とみなされてしまうかもしれない。
それによって助けられるはずの誰かを助けられなくなったり、自分たちの命が危険にさらされるかもしれない。
また何の罪もない弱い立場にある人たちを、私たちが武力をもって傷つける、「加害者」になってしまうのではないか。


風呂で考えていたら、涙が止まらなくなった。本当はもっとおだやかな言葉をもってして書き記したかった。私は「国」を主語とすることが好きではない。そこにいる「人」が見えなくなってしまうから。そしてその「外」の人たちとの間に隔たりをつくってしまうように感じるから。誰も、傷つける側にも、傷つけられる側にも、なってはいけないんだ。心をもって、未来をつくっていかなきゃいけないんだ。


こんなに苦しい夜は久しぶりかもしれない。

どうしても、今日のこの気持ちはのこしておきたかった。
2015年7月15日 人を想って。



すみれ

やりたいことを書き出してみよう



学生も(たぶん)あと9ヶ月。
はやいなぁ。

縁もつてもない大阪に来て、
なんだか色んなことがあって、
嬉しいことも悲しいことも
まるっと詰め詰めの3年ちょっと
だったよなぁ。
何より、本当に素敵で大好きで
多くを語らなくても
私をわかってくれる最高の
友人たちに恵まれたこと、
感謝です。
それだけでもう大阪に来て良かった。

残りの時間も、そんな身の回りの
大切にしたい人たちを大事に、
過ごしていきたいです。
(きゃーありきたりな誓い!けどホント!笑)

そんな私の残りの時間でやりたいこと。

・飲みすぎてどんちゃん騒ぎする
オイスターバーに行く
・鍋する
・餃子パーティする
熊野古道にいく
高野山にいく
・「ハシゴ」の限界に挑戦
・三ノ宮の日本酒センターに行く
・日本酒の蔵に行く
・ビアガーデン行く(3回)
・ゴロゴロする
・山に登る
・温泉に行く
フィンランド行く
チェンマイランタンフェスティバル行く
・フリーペーパーつくる
・花火いく
・浴衣着る
・寝続ける
・祭りいく
・祭りする
バドミントンする
・ピザ食べる
・ケーキつくる
・安いビール買ってきてちびちび飲みながらDVDみる
・商店街の行ってないお店に入ってみる
・八百屋のおばちゃんと友好関係を築く
・寛容な心をもつ
阿波踊りいく
・いけなくても踊る
カホン買う、もしくはつくる
・バンド組む
・お世話になったみんなにちゃんと「ありがとう」を言う。


…ていやっ、とりあえずここまで!
欲望がぼこぼこ湧いてくる〜。
また思いついたら書くぞ〜。

看護師になった同級生

先日、中学2年のときの同級生と
再会した。
高校もどこに行ったのか知らず、
多分卒業以来、7年ぶりの再会。
今文字にして驚いた。7年。

彼女は4月から看護師になっていた。
地元の病院で働いているそう。
その多忙な勤務の合間を縫って、
「2連休」をつかって、遊びに来ていた。

中学時代は2年のとき、同じクラスだった。先生としょっちゅう喧嘩したり、
やりたくないことはやらない、
で一貫していた。
けれども本当に優しくて、いつも
素直であけっぴろげなその子が
私は大好きだった。

「看護師になりたい」と決めてから、
国家試験に向けて無我夢中で
毎日10時間以上、勉強した。

結果は見事合格。

発表されたのは3/25。
そこから着任先の病院を探し、採用された。普通なら結果発表前から動くところを、なぜそうしなかったのか。
「だって、ここで働かせてくださいってお願いしたんに、ダメでした、すいませんって、謝るのはしたくなかったから」
まっすぐな彼女らしさが見えた。

次の目標は、医師と同じように医療行為のできる、「認定看護師」になることだ。
毎日の仕事は激務だが、それでも自分で選んだ仕事をやれている毎日は「めっちゃ楽しい」と言う。

「あたし、シンプルなん。好きなことはとことんやる。そうじゃないもんはやらん。好きなもんじゃないと頑張れんから」



喜んでもらいたい、から


私という人を認めてもらえた。
がっちりと握手をした。
何が起きているかわからずに
始終しどろもどろだったけれど、
帰り道小さくガッツポーズをした。

まだまだ先はわからない。
自分の気持ちを確かめる時間にする。
母には敢えて伝えない。
「喜んでもらいたい」
という気持ちを最優先する自分から
卒業するため。

素直に一人嬉しむ夜にしよう。



アクティブってなんだろう


「何にでも挑戦して、外向きだね〜!」
「あの子、アクティブだよね〜!」
「これからの時代、グローバルな考え方、していけるようにならないとね!」

てことばを聞くと心がピリピリする。

わたしだけだろうか。ひねくれているのだろうか。
特に、「アクティブ」って言われている人をみると、その意味の灰色の面を否が応でも意識してしまう。



先生って、小さな頃から純粋に目指してきた人だけでその世界が成り立ってはいけないと思う。
て言ったわたしには、少なからず「負けず嫌い」の気持ちがあったのではないか。

LINEをやめた。


先日、LINEをやめた。
=退会した。

それだけのことなんだけど、
なんでや!とか
メールの連絡めんどい!とか
人間関係狭くなるからよくないよ!
とかちょこちょこ言われることがあって(過敏に反応しすぎ?)
気になったので、私なりの理由(言い訳?)を書いておきたくなった。

私がそうしたのは、
・連絡先だけ知っていて、連絡をとることがこれまでもこれからもない(であろう)人がたくさんいるのって、どうなんだろう?
・私自身唐突に思いつきでメッセージを送りたくなってしまう
から。
一つ目の理由が一番大きいかな。
そもそも、みんなに同じだけ愛を、なんてできるひといないと思うし、いたとしてもそんなの嘘っぱちだと思っている。
だから、大切にしたい人たちとの関係をまず大切にしたいとわたしは思う。それ以外の人たちとの関係をきってしまう、というのとはちがう。
連絡先を持っていないひとでも、必要であればまためぐり合うときがあると思うし、なんとかなると思っている。
だから、やたらに連絡先を知っている、という状態そのものが私にとってキャパオーバー。理解されにくい感覚だろうなぁ、と書きながら思う。
私自身が唐突にメッセージを送ってしまう、というのはLINEをやめたからといって変わらないのかもしれないけれど、私自身がものすごく寂しがりなために時々なんというわけもなくメッセージを送りたくなってしまうときがある、ということ。慰みにそういうことをする私がよくないなあと思ったのと、相手にわるいなあ、と思ったため。
まぁ、そんなこと、気にせんとうまいこと付き合っていければよいんだけれど、なんだかそうもいかなくて。だからゆるしてね。




鱈の甘酢あんかけ、
ていう料理がこの上なく好きです。


自分を無にして相手に尽くす


記者さんに質問をしていて気づいた。
インタビューする、って、自分を無にすること。とことん相手と同じ方向を見ることに尽くして、何を思っているのか、寄り添うこと。
それが私にはできていない。情けない。
どこまでも「自分」を軸にしてまわっていて、欲しい答えがあって、それによって自分の思いが裏打ちされるのを望んでいる。どこまでもひとりよがりなんじゃないか。自分の思いの追い風になるようなことばは心を尽くして聴いて、満たされるけれど、そうでないものは無意識に耳に蓋をする。

自分がどう思っていようが関係ない。相手のことばに心を傾けて、謙虚に聴く、その当たり前の姿勢ができていない。大沢親分なら「喝!」ってとこや。大反省。